科学哲学の話
「四次元時空の哲学」、最初の方読んでるが相対論の典型的な誤謬って感じ
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
四次元時空の哲学 --相対的同時性の世界観 [21世紀叢書]
- 作者: 村山章
- 出版社/メーカー: 新泉社
- 発売日: 2007/10/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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論証の流れは次のような感じ:
- 適当な運動をしている,自分と同時点の他者を考える.
- 彼から見て,彼と未来の自分が同時点である.
- したがって彼にとって自分の未来は既に生起済みである.
- つまり未来は決定的である(もう既に起こってしまっているのだから).
まあこれは地球から見てロケット内の時計が遅れるのと,ロケットから見て地球の時計が遅れてるのと同じようなパラドックスなので,次のように考えれば解決する.
ある系で過去=決定済みとされていることは別の系では未来=不確定となることが逆説的に見えるのはそれぞれの系を総合した超越的な観測者を考えているのがいけなくて、各々の系では実在に問題はない
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
結局,自分も彼もその系の中では因果の問題はなにも生じてなくて,両者を総合した見方でパラドックスが起こるということは,そのような見方をとるのがおかしいということだ.言い換えれば,「自分にとって」未来だとか,「彼にとって」現在という括弧の中を考えずして,過去とか未来を語るのがいけないということ.
系によって実在が変わるということに違和感があるなら実在を捨てろ
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
突然実在の話をしているが,これはこの本で決定性の前に
自分→自分と同時である他者→運動している他者と同時である未来(過去)の自分→未来(過去)の自分と同時である全ての存在
という同じ流れで過去・未来の実在を論証しているからだ.この論証の「基本法則」として
「私から距離を隔てた場所に、他社が実在する。」
この命題を否定したら、客観性を前提とした科学が成立しない。
とか書いてあって,こう,科学的実在論争とはなんだったのかという気持ちになった.
*2わたしは実在論を物質についても理論についても放棄しているのですが
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
僕は実在論が嫌いで,なぜかというと実在論者や「反実在論者」*3の唱える「実在」の意味が分からないからだ.「反実在論者」は人間と同じくらいのサイズで観察可能な物は実在して,微小で観察不可能な物(原子とか電子とか)は実在しないと言うのだが,しかし何故君たちは自分の目や脳を信頼できるのかねという疑問が湧き出てくる.原子は目には見えないけれども,君の目だって世界を正しく写し取っているとは限らないし,神経を通じて脳が像を解釈していく過程で何かが捻じ曲がっていてもおかしくない.錯視なんかはその一例だし,水槽の中の脳みたいに見えるすべては幻想かもしれないのだ.
もちろん,「自分の認知能力に限界はあるかもしれないが,原子や電子みたいな見えないものよりは見えるものの方が信頼できる」という主張もできるだろう.しかし,日々そういった観察不可能な物に対して実験を繰り返している技師や科学者にとっては,手足で物を掴むのと同じように,実験装置で原子をいじっているようにも感じられるだろう.彼らにとって原子は実在しているのだろうか.もしそうなら,実在とは,単に「その物に慣れている」以上の意味を持たないのではないか?
実在論者が唱える「実在」は,もっと不明確で分からない.「反実在論者」は観察可能/不可能を通じて実在を決めているからまだ意味が掴めるのだが,実在論者は単に「実在する」しか言わないからマジで訳分かんねえ.もっと例を挙げるなりして明確にしてくれ.
とはいえ原子や電子という考え方は虚構とはいえ極めて便利なのでして
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
まあスコープを決めればこういうのか実在すると考えても問題はない,でいいんじゃないんですかね
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
究極的にはニュートン力学は成立しない・熱素説は正しくないというのはそうなのだが,成立するスコープはあるのである
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
「ある理論が真である範囲ではその理論は真である」,というのは無意味なトートロジーに見えるかもしれないが,物理でやる言い換えをすれば「その理論が真となるような枠組みを操作的に作れる」という主張ができるので,これは大事なことだと思う
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
言い換えの例としては慣性の法則を慣性系の存在と読み替えることがある
— pandaman64 (@__pandaman64__) 2016年7月3日
ここら辺は理論の実在性の話.理論の実在性とは「科学法則は(近似的に)真である」という主張のことだ.理論の実在論とは「悲観的帰納法」という厳しい反論があって,擁護するのは大変.僕もあんまり擁護する気にはなくて,それよりも,議論のスコープ(枠組み)を考えるのが良いんじゃないのかなーと思っている.ニュートン力学は人間と同サイズぐらいの物質については極めてよく当てはまるし,熱素論も温度の違う2物体が接触して温度が等しくなるという現象をうまく説明している.これは「理論がうまくいく範囲なら理論は真」ということしか言ってないように見えるかもしれないが,「理論がうまくいく範囲がある(つくれる)」という存在の主張だと考えれば割とポジティブだと思う.
今の相対論とか量子力学だって,将来的には全く異なる理論によって置き換えられはするのかもしれないけれども,とはいえ置き換える法則は相対論や量子力学のスコープでは彼らを再現するような結果を導きだすだろう.そのスコープでは彼らは十分真だろうし,彼らが措定するような実在は実在するとみなして問題ないんじゃないのかなあ.
ここまで書いて自分の考えが構造実在論にかなり近い気がしてきた.でも実在って嫌いなんだよな.