本:『確率の哲学理論』

この本を読む前の僕は頻度主義者を自称しており,「ベイズ主義だとベイズ推定の解釈が簡単!」という言説に対して「それは確率の方に解釈の難しさを持ってきただけでは?信念の度合いって何?」「それに主観的確率を採用するとしてなぜその値を現実の事象に採用して上手くいくと考えられるの?それ結局頻度主義なのでは?」と反感を抱いていました. とはいえ,こんなことは専門家がとっくの昔*1に考えているはずなので,良さそうな本を拾って読んでみました.

読んだ後の気づきとしては自分は頻度主義者というより傾向説の方が近いかなという感じ. それに主観的確率は操作主義的に測れるんですね,なるほど~.そしてそれが間主観的という一種の客観じみたものになり得るというのも納得*2

古典的理論

  • 17世紀当たりの奴
  • 無差別の原理

論理説

→無差別の原理は発見的原理としては役に立つ(統計力学で等重率の原理が現象を説明する)けど論理的な原理としてはパラドックスを生むよ(=いつでも設定できるわけでは無いよ)

主観説

  • ラムジー
  • デ・フィネッティ
  • 確率は個人の信念の度合い
  • 確率は賭けに割り振る値によって操作的に決められる
  • → Dutch book argumentによってコルモゴルフの公理系との同値性が示される
  • 独立性の代わりに可換性を仮定する
  • しかし,独立性はアプリオリに想定できるものではないため,可換性も主観的に決めることは出来ない

わからんところ

ギリースのバージョンのDutch book argumentは破綻していると思う. 具体的には,登場人物Aさん・Bさんの内Aさんが事象Eの発生にqの信念の度合いを提示し,Bさんがそれに応じて好きな賭け金額Sを賭ける(Sは政府いずれでも良い). もし事象Eが生じたらBさんがqSを受け取るという形式なのですが,これ上手くいくんですか? 何回も考えたが完全に分からん. 自分は1ドルの報酬がつく賭けにqドルの値を付けるという設定に翻訳して理解した.

ところで,独立性をとりいれた主観説というのはあり得るのでしょうか.

頻度説

  • ミーゼス
  • 確率は性質の集合(標本空間・性質空間)での相対頻度の極限
  • 経験則の1(統計的頻度安定の法則). 相対頻度は大体収束する(コルモゴルフに対応)
  • 2(ギャンブル体系排除の法則). ギャンブルで勝つ方法は無い(ランダムネス・独立性に対応)
  • 単一の事象の確率は不正確な語法であり,本来は扱うべきでない
  • ミーゼスの確率論は自然科学の数学と同じようなもの
  • 確率は相対頻度の測定によって操作的に決められる
  • 完全な操作主義は不可能
  • ランダムさの公理の性質・立場が微妙
  • 加算的加法性が入らない

傾向説

  • ポパー・ギリースほか
  • ポパーの(オリジナルの)傾向説→頻度説ではない客観説全体を指すように
  • 確率は何らかの傾向
    • 繰り返しの条件が相対頻度を生む傾向
    • 世界の傾向→テストしづらい
  • 因果性を確率と結びつけるには難点がある(逆向き・同時点の現象についての条件付確率の解釈が難しい)

ギリースの傾向説

  • 条件の傾向
  • 確率理論は未定義語の関係であり,現実の抽象化である(ユークリッド幾何学がそうであるように)
  • 抽象法則は間接的なやり方で現実と関わり,法則が生成する仮説のテストによって正当化される
  • 経験法則をより深くしたものとしての確率論
  • このときに定性的な関係が用いられる→統計的検定による棄却
  • 統計的頻度安定の法則→確率残による収束率も含んだ計算(より正確な見積もり)
  • ギャンブル体系排除の法則→独立性
  • 加算的加法性が無理なく入る(数学的な単純さがあり,理論体系が観測と矛盾しないことによって正当化される)

(本文より) こうしてコルモゴロフの公理の意味と,確率論におけるその中心的な役割が新たに明らかになる.小売りは十分抽象的なので,主観説によっても傾向説によっても満たされている.したがってそれは,これら両方の解釈にきょうつうするすうがうてき,構造的特徴を示している.しかし,もし手関節から客観的解釈を区別したい場合には,もう一つの公理,すなわち独立した繰り返しの公理を付け加えることによって区別が可能になる.もしその結果得られる体系を観察に結びつけることで正当化したいとすれば,反証ルールを付け加えなければならない.こうして,抽象的で数学的な公理から経験の世界へと渡る橋がつくられる.

間主観的確率

  • ギリースほか
  • 複数人に対するdutch bookを考えると,複数の人物が同じ主観確率を持つことが合理的な場合があることが分かる→缶主観的確率
  • これは主観と客観の間が連続的であることを示唆する

人工物的なもの→星座の星は宇宙に人間とは独立に存在するが星同士の距離は極めて遠いこともあるし,それぞれ相対的に運動している.つまり星座は最近の人間が恣意的に定めたものである.電子や光子という分類も同じ意味で人工的である.

  • 主観的→個人の信念の度合い
  • 間主観的→合意による集団で共有された信念の度合い
  • 人工物的→確率は物的世界に存在するが,確率の生じた原因は人間と自然の相互作用によるものである.例えばコイン投げ・喫煙者が肺がんになる確率
  • 客観的→人間とはまったく独立に物的世界に存在する確率.放射性原子の分裂確率とか

原子や講師が人工物的という分類面白いと思うんだけど,実在論の範囲では聞いたことがない.実は有力な反論があるのでしょうか.

多元主義

これらの中でまともに使えるのは主観説・間主観説・傾向説. コルモゴロフの公理は十分に抽象的なので主観的にも客観的にも解釈できる.

繰り返しの事象については傾向説で解釈すれば反証ルールで確証・反駁ができて客観的に確率を計算できる.

単一の事象の確率には主観的確率がよっさそう.

例: 経済の状態は時期・場所によって独立ではない. サンプリングは母集団においては既に頻度は定まっているのであり,ランダムネスは抽出によってのみ導入されるだけである. よって経済の状態について客観説を用いるのはできない. これはある意味自然科学と社会科学の違いを示している.

自然科学では調べる事象は調べる人に全く無関係に起こる(不確定性原理は微妙だけど). 社会科学では調べる人=関与者の意思決定が社会事象に影響を与える. “"予想がのちの事象に一致したのか,それとものちの事象が良そうに一致したのか,どちらともいえない”"

参加者が社会システムへの(誤っているだろう)理論・信念を形成し,それが社会に影響を与える. その影響を繰り込んで参加者がまた理論・信念を更新していく. →再帰性(ソロス)

とはいえいつでも再帰性が大きいとは限らない.無視できるほどに小さいことも多い ↓ インデックス(均衡理論・正常な状態) vs アクティブ(再帰性・正常でない状態)の対立 自然科学(観察者と事象が独立) vs 社会科学(観察者が事象に影響する) not 操作主義 vs 操作主義

操作主義は恣意的だが,それでも有用である. 大まかな質的な評価を数的な値にすることができる(e.g. 成績評価) また,値を割り振る方法が規範的な性質をもつ(e.g. 合理的な人間ならdutch bookを許さないように確率を割り振れ) このとき,操作主義はよいか少なくとも十分な方法

自然科学においては,質的な現象が単純に量的なパラメータが導入されて説明される これは上手くいってきたが,社会科学ではあんまりうまくいっていないので操作主義的な手続きが必要

ギリースは株式市場の行動分析を社会科学的なものとみなしている.

p323.

“各株式はある一定の時点で決まった数的価格を持ち,...そこにかなりの恣意性があることがわかる”

“株式市場において価格は,多くの投資家が行った売買の意思決定によって決められる.しかしこれらの投資家の意思決定は独立からは程遠い.投資家はお互いに影響を与え合い,ある一定時点ではいつも,市場価格を大幅に決定する規約的合意がなされている.”

→株価は再帰的に定まっており,自然科学的なパラメータというより操作的に決められた恣意的な値である.

しかし『ランダムウォーカー』では長期的(数十年程度)にはインデックス投資=市場平均を打ち砕くアクティブ投資が存在しないことが繰り返し主張されてきた(これはギャンブル体系排除の法則にも似ている). これは株式市場でも長期的には(傍点)独立な条件の繰り返しとして還元されることを示しているのではないか.

*1:といっても100年も経ってないのだが

*2:とはいえ,デ・フィネッティの間主観的確率の導入は統計学をしっかりやるためにはナイーブすぎる気がします.ぼくは統計理論は渡辺さんの『ベイズ統計の理論と方法』でしか調べたことが無いのですが,件の本にはサンプルの独立性の仮定なしに統計的説明ができる方法は見つかっていないと書かれており,アプリオリな可換性による議論は難しいだろうというギリースの意見に同意します.