数学に正解は一つしかないのか?

概要: 自分はそうは思わないし,数学はもっと広く捉えられるべきだろう.

元ネタ:
dafuyafu.hatenablog.com

記事の主張は「数学の学習は寛容性を育む」ということだが,その点については同意も否定もしない*1
ただ面白いのが

数学が他の学問とはっきりと違うことは真の意味で正解が一つしか無いことである

と主張していることだ.これは数学の哲学における数学的実在論である.
著者は次のように続ける(強調は自分が追加):

(注: 社会科学における正しさはある種恣意的であるものの)一方で数学は基本的に正しいとされているものは(現代の一般的な数学においては)ZFC公理系のみであり、それと一階述語論理の重なり合った推論を用いて数学は記述されている。つまり、そのルールに違反しているものはすべて一様に間違いであり、そこに人間の恣意的な部分が入り込む余地は全く残されていない。「正しそう」「多くの人に支持されている」などといったものは厳密には数学には存在せず、そこには「正しい」と「間違い」しかない

すなわち,数学的な命題の真偽は我々人間とは独立に定まっており(太陽が我々とは独立して「実在」するように),数学とは真理に接近するための手段であるのだ*2
このような立場は一般の人たちにも広く受け入れられているだろう.数学の命題は十分注意を払えば取り違えなんて起こらないような明確さで記述されているし,数学的な議論というのは我々が普段するような議論とは異なってとても厳密さに注意を払っているようである.学校教育は数学という科目でそのようなただ一つの正解を教え込んでいるのだ!
しかし「数学者」が実際にやっていることを眺めてみると案外そうでもないかも…という気になるかもしれない.自分は残念ながら数学者ではないのだが*3,数学の哲学を含む科学哲学に興味を持つ立場から意見を述べたい.

数学の様々な基礎づけ

ZFC公理系による公理的な集合論が現代の数学における標準的な基礎づけである,すなわちZFCを公理系として採用することは合理的なことであり*4代数学をその上に展開することができる,ということは広く受け入れられていることである.
しかし,数学にはそれ以外の基礎づけも知られている.この記事では型理論を基にした基礎づけを紹介しよう.

型理論では数学の項に対して型を割り当てる.例えば0や100という数値には整数型が割り当てられるし,「∀x∃y. xRy」のような命題を表す項には真理値型が割り振られるだろう.プログラミング言語を触ったことがある人にはなじみ深い概念かもしれない*5
型理論を用いた数学の基礎づけでは,型の合わない文は無意味である.これは集合の所属関係∈のみをベースとし,「7 ∈ 42」が有意味である(しかも適当な構成の下で真ですらある)ZFCとは対照的である.
型理論ベースの数学は定理証明支援系の分野で広く用いられている.

例えば,Isabelle/HOLという定理証明支援系ではSimple Type Theoryという型理論をベースに高階論理を用いて数学を形式化している.Isabelle/HOLで形式化された数学の一つにはHOL-Analysis(実解析)がある.
Simple Type Theoryよりも高度な型理論,特に依存型を用いた定理証明支援系も良く使われている.その典型例がCoqやLeanだろう.Leanのmathlibでは「数学者」とコンピュータ科学者が共同で数学の形式化に取り組んでいるようだ.
これらの体系は型理論をベースとしているという点では似ているが,採用している公理系は異なる.例えば,Isabelle/HOLでは排中律やHilbertの選択演算子(選択公理より強いらしい)を公理として導入しているが,CoqやLeanでは公理ではない(もしくは慎み深く部分的に用いられる).
当然,片方の体系では成立する定理がもう片方の体系では成立しないということもある.「数学に一つの正解しか存在しない」ならば,彼らのいずれかは間違っていることになりそうだ.
しかし自分はそうは思わない.特に数学には複数の「正解」が存在すると捉えるのが良いと考える.つまり,やりたい「数学」を便利に展開できるように公理系は好きに選べば良いのだ.

型理論ベースの数学でも集合論的な議論は良く用いられている.ただし,その定式化のされ方は,既存の型をベースにして分出公理によって部分集合を構築するようなやり方である.
一方,ZFCでは分出公理は導出される定理の一つであり,これらの体系間で集合の様相というのは異なっているように見える.HOLZF(ZFCをIsabelle/HOL上で形式化したもの)では「ZF集合(の型を持つ項)全体の集合」なんてものも定義できてしまう.
しかし,それでもZFCの集合と型理論上の集合で同じようにクリーネの不動点定理を証明することができる.
これはある意味当然なことである.なぜなら,数学の公理系は我々の行うような数学的議論を再現し正当化するために作られてきたからである.
一方でこの事実は驚くべきことでもある.異なる数学の基礎づけ(それぞれ成立する定理も異なる)が同じ「数学」(順序集合の理論)を再現できるからである.
自然言語に例えるならば,日本語と英語はそれぞれ異なる言語であるけれども「涼宮ハルヒ」はどちらの言語でも刊行できるということだ(細部のニュアンスは変わってしまうだろうが).

我々(や「数学者」)のやりたい「数学」が様々な公理系で展開できるのならば,それらから一つを選ぶ理由は外から与えられるであろう.
それは例えばコミュニティにおいてスタンダードであったり自分が慣れている(ZFC公理系)からかもしれない.一方で,定理証明支援系の分野で型理論が広く使われているのはプログラミング言語との相性の良さだろう.
もしくは「論文になるならなんでもやる」のかもしれない(これはやりたい「数学」のために公理系を選ぶ例だが).


もしくは一つを選ぶ必要すら無いかもしれない.我々が消費税を計算する際に実数の構成までいちいち後戻りしないように,通常の「数学者」もやりたい「数学」のために公理系まで戻る必要は無いし,実際気にしないことが多いと想像している*6

数学の範囲

一方で様々な基礎づけが用いられている状況を実在論者の視点から擁護することもできる.つまり,今我々が持っている公理系は「未完成」であり,「真の数学」のイデアを射影したようなものなのだ.
この視点から見ると,同じ「数学」(順序の理論)が種々の公理系から再現できることはまさに実在論の証拠となる.なぜならば,異なる数学体系から順序の理論がそれぞれ構築できるということは,順序の理論が数学の形式化とは独立した対象(実在)であることを意味しているからだ*7
したがって,「数学には一つの正解しか存在しない」(真の数学だけが数学である).しかしそれぞれの公理系を採用する「数学者」たちは別に間違っているわけではない.彼らは様々な方法で真理(真の数学)に接近しようと努力しているのだ.

自分はこの視点も筋は通っていると思う.ただし,現状真の数学を我々が獲得できていない以上,この立場では「数学者」がやっていることが数学では無くなってしまう.「前数学」とでも呼べばよいのだろうか.
しかし,そのようなラベリングはあまり豊かではないと考えている.「数学者」が(とりわけ)やっていることは数学だと考えるのが我々の言語感覚にマッチしているし,そこに色々面白いことがあると思うのだ.

前数学も数学に含めるような感覚は歴史的にも肯定できる.例えば,ピタゴラス学派が三平方の定理を発見したとき・古代インドでゼロの概念が発見(発明?)されたとき,彼らのやっていたことはその時代で最先端の数学と呼ぶのがふさわしいだろう.
当時にも『原論』のような公理化の動きはあったのかもしれないが,それらと現代の基礎づけの厳密さとは比べるべくもないだろう.しかし彼らは数学者であったはずだ.
ニュートンライプニッツ微積分学を発見(考案?)した.オイラーはその上に豊かな力学の世界を築いたのだ.彼らの働きを数学からのけてしまうのは不適切だと思われる.
もしくは,「数学者」たちが現在取り組んでいる未解決問題を考えてみるのも良い.象徴的な例が宇宙際タイヒミュラー理論だろう.考案者らは当然理論が正しいと考えている一方で,「数学者」コミュニティからは疑問の声が挙がっている.
真の数学が存在するという立場からすれば彼らの論争はあまり意味のないことかもしれない.しかし,自分はこのような例を人間の営みの一部の数学としてとても興味深いと考えている.

結局のところ,自分は数学を単なる定義・定理・証明の羅列に還元したくないのである.数学は数学的なアイデアを発見(考案)したりそれを伝達したりするようなプロセスだと考えたいのだ.
この視点からすると,アルゴリズムヒューリスティクスだって数学の一部である.小学生にさくらんぼ計算を教えるとき,我々は足し算というアイデアを具体的なアルゴリズムを通じて伝達しているのだ.
ヒューリスティクスは常に成功するとは限らないという点では「一つの正解」であるとは言いがたい.しかし,ε-δ論法を用いて収束列の評価をするとき,必要条件から逆算していって良さそうなδを見つけるのは数学だ(そして学生は「天下りだ!」と不平を垂れるのだ).
このようなヒューリスティクスは「数学者」の中でも用いられているように見える.例えばフェルマーの最終定理のワイルズによる証明とグロタンディーク宇宙の関係についての質問では

Many working arithmetic and algebraic geometers however take it as an article of faith that in any use of Grothendieck cohomology theories to solve a "reasonable problem", the appeal to the universe axiom can be bypassed.

と述べられており,信頼のおける「数学者」によると実際に回避は可能なようだ.このような信条・テクニックと呼ばれるものはほかにも存在する.例えば「巨大基数公理に関する目覚しい知見の一つとして、それらが無矛盾性の強さ(英語版) から見ると厳密な線形順序に従うという経験則」が存在するらしい.
これらはとても興味深いし,数学だ(と思いたい).

数学ゲームの比喩

元の記事では数学とスポーツ競技を比較して違うものであると述べている部分がある.

学問に限らずに話を広げると、ルールが画一されているという点ではスポーツ競技を思い浮かべることがあるかもしれない。例えばサッカーや野球は全世界でほとんど共通のルールで争われている。しかしながらその勝ち方やゲームの進め方はチームや各選手それぞれである。パスサッカー、カウンター狙い、機動力野球に重量級打線。そのどれもがスポーツのエンターテインメント性を高め、そういった差異がある状態こそがスポーツのコンテンツパワーを向上させている。麻雀に関してはルールさえ画一されていない上に絶対的な正しさを知ることは物理的に不可能である。

自分はこの議論をあまり説得的だとは思えない.それよりも数学とゲームの類似性を際立たせているのではないかとすら思う.
すなわち,数学は(形式化にはいろんなやり方があるとはいえ)ほとんど共通のルールで営まれており,しかしながら勝ち方は各選手それぞれなのだ.代数を使ってもよいし幾何でも解析でもいい.やっていることには差異があるのに,しかし数学ができてしまう.それが数学のコンテンツパワーを向上させているのだ.絶対的な正しさ(真の数学)を知ることはできるのだろうか?自分はとんでもなく難しいと思うけれども,あなたの意見は違うかもしれない(特に実在論者なら).

なんならサッカーコートに立つ必要すらない.チームのオーナーは個々のプレイになんて興味は無くて,動員数が増えればいいのかもしれない.物理学者やコンピュータ科学者,もしくは応用「数学者」が純粋数学の結果だけ刈り取っていくかのように*8
しかし,数学の応用,例えば物理数学が純粋数学の発展に繋がることも歴史的に多々生じてきた.そしてそれは今後も続くだろう(くりこみ群とか).すると数学の応用ですらも数学の範囲に含めてしまっても良い気がしてくる*9

まとめ

自分にとって数学は「数学者」のやることだ.そして,その範囲を広く捉えるとそこには興味深い世界が広がっていると信じている.その世界の中に数学はたくさんあるし,「数学者」は様々な方法で数学と向き合っている.

*1:記事の議論は一番大事なところ(いかに数学の学習が寛容性に繋がるか)が飛躍しているとは思う.例えば「数学にはただ一つの正解があるように,他者との議論においてもただ一つの合意に到達できるのだ」と書いても同等に確からしく見えてしまうだろう.

*2:引用部分を文字通り読むと命題の真偽(「正しさ」)と推論の妥当性(「そのルールに…」)とが混同されているようにも見えるが,これは筆が滑っただけだろう.

*3:コンピュータ科学とか情報工学とか呼ばれている分野の研究をしています

*4:矛盾していることはありそうもないとか

*5:数学の話題が工学の世界に流れてきているのだ.面白いね

*6:そんなことが無かったら申し訳ない

*7:この視点はハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』で知った.面白い本だよ

*8:コンピュータ科学者として数学者と論理学者には「本当にありがとう!」と叫びたい

*9:数学の応用は『数学はなぜ哲学の問題になるのか』のメインテーマの一つだ(もう一つは証明).本当に面白いよ.

「〇〇はクソ」って言うけれど…

インターネットやってるとこういう意見,目にしますよね.
〇〇にはマスコミ・掛け算の順序・フェミニストなどなど何でも入っているような気がします.
この記事ではこういった意見を目にしたときに自分がよくやる「思考のくせ」みたいなものを三点紹介したいと思います.

(比較的)いい面を考えてみる

一点目は〇〇が為してきた功績やよい点を考えてみるということです.
例えば,自分は週刊誌のことを下劣だとは思っていますが,彼らが「スクープ」を行ってきたことも確かです.

もしくは〇〇が無くなったときのことを考えてみるのもいいでしょう.
マスコミの報道でミスリーディングな見出しが物議を醸すことはままあることですし,テレビの疑わしい健康情報が残念な帰結を産んだこともあります.
だからといって,マスコミに「取って代わる」ようなものがあるかというと難しいでしょう.
例えば,日常的にデマを撒いてるまとめサイトやアルファツイッタラーに人々が情報を頼るようになるというのは望ましくありません.
その点でマスコミは「マシ」な選択肢であると言うこともできるでしょう.

期待を下げる

二点目は,他人にあまり期待しすぎないことです.スタージョンの黙示(法則)なんて言葉もありますね.
例えば,日本に記者は2万人近くいるようです
それだけいたらクズやバカぐらい…いてもおかしくないでしょう.組織だってダメダメなものです.
もしくは悪意が無くとも単に運が悪かったケースも存在しているように思われます.

この考え方が有効なのは特定の主義を叩いているケース(Toggetterまとめのリンクがついていることが多い)でしょうか.
結局のところ,あらゆる主義の元にはあらゆる程度の人間が集まるのであり,ひどい意見は探そうと思えば見つかるものです.
これらはリツイートまとめサイト,場合によっては伝統的なマスコミを通じて拡散していきます.
すると,外部の人間にとってあたかも〇〇主義にはどうしようもない人たちばかり集まっているように見えてしまうのです.
しかし,そのような見方は極端に過ぎるでしょう.主流派の考え方は穏当かつ現実的なことが多いものです.
そういった真っ当な意見を仕入れるためには,入門書のようなまとまった文章を読むのがよいでしょう.

これらの考え方に共通しているのは,〇〇を単一の存在とみなすのではなく,もっと複雑でゆるやかな集まりと捉えることです.
「マスコミ」「右翼」「左翼」「在日」というものが存在して人格を持っているわけではありません.
それらは多くの人から構成されていて,彼らには日々の生活がありますし,〇〇も彼らを構成するたったの一面にしか過ぎないのです.
やることなすこと上手くいくこともあれば失敗もあります.場が変われば適応に困ることもあるでしょう.
彼らは日々大したことないことで笑ったり泣いたりしていて,我らの社会の大事な仲間なのです.

こういった「思考のくせ」を通じて,自分はインターネットによくある批判を「極端だな」「建設的でないな」とみなすことが多いです.
けれども,自分はそれで怒りを覚えたりするのではなく,どちらかというと諦めに似たような感情を抱くようにしています.
なぜかというと…

裏にある気持ちを理解する

彼らの裏にある気持ちも理解できるからです.

例えば,スキャンダルに触れ続けた結果マスコミを信頼できなくなるという気持ちは理解できます.
もしくは,露骨なイラストを見て思わずぎょっとしたり何か大事なものが冒されたように感じてしまうというのも理解できることです.
そして,いきりたった人間というものは理にかなっているとは限りません(期待を下げる).

ですから,インターネットにおける行き過ぎた意見は,不信感や不安・怒りの表明であると捉えると納得がしやすいです.
文面自体はある意味どうでもよいのです.それらはきっと自身の意見を正当化するような頭のはたらきによって生み出された何かでしょう.

この考え方は人の内面を勝手に推測し押し付けているようなものです.それは不正確で望ましくないと思うかもしれません.
けれども,典型的な批判ツイートに関してはあながち的外れではないと考えています.
少なくとも,批判を目にしたとき,自分が批判をしたいと感じたとき,その元となった感情の動きを理解しようと努めてみるのはよいのではないでしょうか.

今までの社会はクソで,それは今も変わりません.これからもクソであり続けることでしょう.
けれども我らは社会をよくし続けてきたことでしょう.それは今だって可能ですし,これからだって続けていくべきです.
ひどい意見が見つかって拡散して炎上して…という流れは残念なものです.社会の中には現実的な意見を構築している人,現地で改善の努力をしている人がいます.
やっていきましょう.

みんな○○好きねえ

インターネット大盛り上がりに乗れないことがままある.
悲しいね

乗れなかったなリスト:

世代,なのかなあ.でも同世代がハルヒでワイワイしているのを横目でふーんと眺めてるのあったぞ.
別に波に乗る必要は無いし,ぼくの中で盛り上がっていることも他人からすればふーんなんだろうけど
TwitterのオタクどもがキャッキャッしてたりVTuberが話題に出したりをただ見ているしかできない,というのはどうも寂しい.

どうしようもなくnaive realism

「分かりづらいツイートして満足してないでブログに書け(大意)」とのことなので書きました

実在論(realism)

実在論とは,対象が我々の外部に独立して存在するという主張である.
我々は普段目に映ったり耳に聞こえたりするものが本当に世界に存在すると感じながら生きている.
例えば目の前のパソコン・もたれかかっている椅子・窓の向こうの月や画面の先のVTuberは「実在」しているのだ.
このような人間にとって自然な認知の仕方は素朴実在論(naive realism)と呼ばれている.

当然,実在論に対して反対する立場も存在する.
とくに科学哲学の分野では,科学が対象とするもの(原子など)が実在すると主張する科学的実在論反実在論の争いが続いている.
悲観的帰納法なんかは面白く,科学の発展において存在しない/正しくないと明らかになった対象(燃素とか)について帰納的に考えることで反実在論を主張している.

この記事を書いた理由は上に上げたHacker Newsで「数学(やその定理)は発見されたものだ!」と繰り返し主張している人が居たから.
この人は数や定理・数学的構造といったものが我々と独立して存在しており,それを人間が発見するという活動が数学であると考えている訳なので,実在論者である.
反対に「数学は発明されたものだ!」と言っている人も居る.この人たちにとっては数学はある意味人間(の社会的インタラクション)によって構築されたある種の知的ゲームであり,実在していない.
HNの人たちは発見発明と同じことを繰り返すばかりで話が進まないのだが(悲しいが良くあることだ),その背景にはこのような哲学的立場の違いがあるわけだね.

ハッキング『数学はなぜ哲学になるのか』では,なぜ数学にこのような哲学的論争が発展する余地が生じているのかを描き出していて面白い.
特に本書で提示される「デカルト的証明」と「ライプニッツ的証明」の区分けなんかは感心したものだ.

数学はなぜ哲学の問題になるのか

数学はなぜ哲学の問題になるのか

ちなみに,自分は反実在論寄りの立場である*1
でも卯月コウも赤月ゆにも実在してるんだよなあ.どうしようもなくnaive realismってワケ.

*1:例えば,いわゆる数学の基礎にも様々なバージョンが存在する. 普通の人たちは素朴集合論で問題なくやっているし,もしかしたら大半の数学的活動(ディ~プラ~ニングとか)は算術のアルゴリズムを内面化さえしちゃえばいいのかもしれない. 厳密に機械検証!!!!つってもSimple Type Theoryベースでやってもいいし(Isabelle),依存型ベースでもCoqもAgdaもちょっとずつ違う.NuPRLはComputational Type Theoryというこれまたよく分からないやつを使っている. これらもZFCとは異なるわけで,それなのに独立した「ザ・数学」なんてものが実在するのかなあというのが疑問なワケだ. 一方,実在論者たちはこの現象こそが実在論の擁護になると主張することもできる.曰く「様々な数学の形(定式化)があるのにも関わらず,それらが全て同じ数学であると認識できるのは,まさに数学が実在しているからだ. 種々の定式化はイデアに住む数学を人間に理解できる形で射影した影の形に過ぎないのだ」と.

生産性を発揮できない

自分の一日のスケジュールは以下の通り:

11時~12時 起きる
~13時 飯
13時~16時 「正」の時間
16時~20時 家事・(リングフィット)・風呂・飯
20時~22時 パソコンと向き合うけど特に何するでもない
22時~ 布団の中で動画見たり眠れね~~~ってなったりする
2時から4時くらいに就寝

13時からの「正」の時間ぐらいしかまともに動けないんだが,この時間に講義・ゼミが入るとそれだけで消耗しきってその日何もできなくなる.
今週は月曜日に風邪をひいてしまってただ横たわる時間も増えてしまったため,実質週1日30分しか研究ができなかった.
そりゃあ週1コミットじゃあ研究進まんよなあ.でもそれが焦りとか不安に繋がって悪いスパイラルに陥ってしまうのだ.悲しいね.

まともな生活を得てえ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~