音楽を聴くこと、モノ化

最近、長瀬有花の『異世界うぇあ』という曲にハマっている。サビがすごいいい(MVも含め)し長瀬有花さんが時折見せる大人っぽい目にドキッとしちゃう。自分的には2022年のベストソングだ。

それはそれとして、近年のツイッターでよく目にする話題と言えばフェミニズム的な話だろう1。 その中で面白いトピックとして「(性的)モノ化」の概念がある。

ヌスバウムの定義によれば、人をモノとして扱うことは次にあげる7つのこと(のどれか)をすることである(日本語訳は探せばあると思います)。以下SEPからの引用(リンク)。

Martha Nussbaum (1995, 257) has identified seven features that are involved in the idea of treating a person as an object:

  1. instrumentality: the treatment of a person as a tool for the objectifier’s purposes;
  2. denial of autonomy: the treatment of a person as lacking in autonomy and self-determination;
  3. inertness: the treatment of a person as lacking in agency, and perhaps also in activity;
  4. fungibility: the treatment of a person as interchangeable with other objects;
  5. violability: the treatment of a person as lacking in boundary-integrity;
  6. ownership: the treatment of a person as something that is owned by another (can be bought or sold);
  7. denial of subjectivity: the treatment of a person as something whose experiences and feelings (if any) need not be taken into account.

もちろん、ここでいうモノ化として想定されているものは(女性を)性的なかたちで見たり扱ったりすることであろうが、ここでは性の文脈を落としたうえで、「(録音された)音楽を聴く」という行為について考えたい。 私はYouTubeで一番音楽を聴くので、それを想定してこの文章を書いているが、この文章における議論はそのほかの媒体(サブスク・CD・レコード・もしかしたら生演奏)にも適用できるだろう。

例えば私は作業をするとき、洗濯物を畳んだり食器を洗ったりするとき、にこれらの曲をBGMとして日常的に流している。 このとき、私はシンガー2の歌声を私の耳を楽しませたり空間に心地よい音を広げるための道具として用いている。 この行為はモノ化の定義1 "instrumentality"にあてはまるだろう。カントの有名なアレに由来するやつだ。

ほかの定義についてはどうだろうか。定義2 "denial of autonomy"や定義3 "inertness"は長瀬有花さんの自己決定や主体性を無視したときに引っかかる部分だろう。 これらについてはまあ大丈夫なんじゃないだろうか。もちろん長瀬有花さんはRIOT MUSICという企業所属だし楽曲も複数の人が関わって作り上げられているので気苦労が色々あったりしてもおかしくはない。 でも、これらの楽曲は長瀬有花さんの自主的かつ強制されていない行為によって生まれたものであろうし、意向も十分反映されてるんじゃないかな。

定義4 "fungibility"はちょっと面白い。この場合は『異世界うぇあ』を歌っているのは長瀬有花さんしかいないので、fungibilityは存在し得ない。 ただし、状況が少し変わればあてはまるかもしれない。例えば『フォニィ』が聴きたいと思ったとき、誰でもいいからと検索に一番に出てきた人を選んだなら、そのときそのシンガーにはfungibilityがあてはまるだろう。

定義5 "violability"は正直このコンテキストではあてはめるのは難しい。指示コメント連投してる厄介オタクとかになるんかな。 定義6 "ownership"もあてはまらないと思う。私は長瀬有花さんに何かをさせることはできないし売買なんてできそうもない。 でも金出して卯月コウの『アイシー』を再投稿させられるならいくらでも積めるな…

定義7 "denial of subjectivity"というのも面白い論点だ。私は長瀬有花さんの経験や感情を考慮に入れているのだろうか。 もちろん、私は長瀬有花さんが楽曲に打ち出している「だつりょく」的な価値観に共感している。Vの者でありながらも実写も取り入れ、境界を揺らがせようとしている挑戦的な面も評価している。 しかし、正直に言えば、私が『異世界うぇあ』を聴くときに長瀬有花さんの経験や感情は考慮に入れていないだろう。これは私がそう思っているというだけではなく、実際にそうである。

長瀬有花さんは楽曲だけではなく、ショート動画として日記もアップロードしている。

なんだかゆるやかで、ほのぼのとした内容で「だつりょく」的な楽曲と地続きな世界が描かれている。 しかし、私はこれらの動画を全然見ていない。長瀬有花さんの日々の経験や感情には興味が薄いのだろう。 この意味では、私の聴き方は定義7 "denial of subjectivity"にあてはまるのである。

結局のところ、私は楽曲を聴くときにそのシンガー、もしくは作曲者や作詞者の人格に対して目的的に振舞うということは典型的にはしていない3。むしろ、私を楽しませることの手段としてのみに扱っているのだ。 このカント的な悪さはほかの人々が楽曲を聴くときにもあてはまっているように思われる。

では、楽曲を聴くことはモノ化であって悪い行為なのだろうか。これは難しい話だ。 まず、モノ化というのは人間を(特に男性が女性を)性的な対象として見たり扱ったりする行いについての話であり、それを音楽を聴くことにあてはめるのはこじつけも良いところだ。 さらに、たとえ音楽を聴くことがモノ化であったとしても、ヌスバウムの言うような問題が無い、もしくは良いモノ化であるかもしれない。 (おそらく)望んで収録し公開している楽曲に対して私たちが熱狂する、このことが悪くなってしまうのは正直、困ってしまう。 もうちょっと義務論を掘ったらうまく正当化できたりするのかな?

ということで、モノ化の定義に対して(変な)具体例をあてはめて色々考えてみました。 このやり方はよく数学を学ぶときに推奨されています。数学的対象が定義されたり定理を読んたりしたときに、具体例を考えてみると理解が深まるというやつです。 少なくともこの記事を書くためにSEPを1ページ読んだので私の理解も深まったことでしょう。そうだといいな。


  1. TL構築に失敗しているだけという話でもある。

  2. 倫理学者の方ではない。

  3. VTuber最協決定戦S4で卯月コウのチームが優勝したときはコウに思いを馳せながら歌ってみたに浸っちゃった。